小さいころから農作業を手伝っていました。高校生からは本格的に手伝い、就職してからも毎年、収穫を手伝ってきました。
私で何代目かは分かりませんが、うちはずっと農家です。祖父の代の頃までは葉タバコを栽培したり、牛の肥育をしたり、いろいろな品目をやっていたようです。私の地元の東根市はサクランボ「佐藤錦」の発祥の地で、うちでサクランボを作り始めたのは、父の代からでした。「佐藤錦」ができた時に、新しい有望な品種ということで始めたようです。最近まで父がサクランボを50㌃、米を約6㌶で作っていました。私は圃場に遊びに行ったり、作業を手伝ったりした記憶があるのは小学生のころでしょうか。今でも覚えているのは、祖父が栽培していた葉タバコの乾燥作業を手伝ったことです。小屋でタバコの葉を一枚、一枚縄に編みこんでいくのです。
父がサクランボを植えたのは、ちょうど私が生まれた頃だったようです。当時は栽培技術が確立されていませんし、苗木の状態も計画的に数年後の収穫を見通せるものではありませんでした。私が10歳の時に初めての収穫を迎えたそうです。サクランボは高校生ぐらいから本格的に手伝うようになりました。収穫前に葉摘みをしたり、摘果をしたり…ですね。
それからほぼ毎年、収穫時期には父から「忙しいから手伝いに来てくれないか」と声がかかるようにもなり、作業を手伝うようになりました。高校は農業高校ではなく、普通科の高校で、卒業後は東根市内でサービス業に就きました。就職後も、収穫時期の手伝いは途切れることなく続きました。休みの日には友達も連れて行ってました。今振り返ると作業が楽しかったというか、好きだったんだろうと思います。一方で手伝いを通し、就職した後も、自然の中で四季の彩りを感じながら働きたいと強く思うようになり、就農を意識するようになりました。
結婚を機に、初めて父に「農家をしたい」と伝えました。それまで「継いでくれ」なんて一言もなく、「好きなようにやれ」とあっさりした返答でした。
転機は結婚でした。夫とは結婚前から一緒に収穫を手伝っていて、主人の実家は非農家ですが、私と同じように農業に魅力を感じていました。結婚したら2人で農業やりたいねと話していて、結婚を機にお互い会社勤めを辞めて「まず研修しよう」と計画していました。父に農業をやりたいと伝えたのはその時が初めてでした。それまで父からは「継いでくれ」なんて一言も言われたことはなく、そんな素振りもまったく見せませんでした。県内の農家で研修することが決まり、父に「この家で農家をしたい」と打ち明けると、あっさりした感じで、「分かった。お前がやりたいなら好きなようにやれ」と。その場はそれっきりでした。
地域の後継者不足は深刻で、周囲の農家の皆さんも後継者の確保に苦労されていたようです。だから、たぶん父もあきらめていたと思います。自分の代で農家を終わりにしようと。姉や兄に継がせることも考えていなかったと思います。なので、父は実はうれしかったのではないかと思います。
夫婦で話し合い、経営のベースはサクランボにして、追加で野菜をやろうと研修に出ました。研修でサクランボの魅力を再認識しました。
研修先はトマト農家でした。夫との間で、経営のベースはサクランボ、そこに何か野菜を追加しようと話し合っていました。いろいろと調べる中で、山形のトマトは夏秋作で出荷時期も工夫すれば、それなりの単価が見込めるところが魅力でした。研修先は夫がハローワークで見つけてきました。当初は2人で研修に行くつもりでしたが、2人同時に経済的に不安定になることが不安で、夫にはお願いして会社勤めを続けてもらうことにしました。研修先で事情を説明すると、「行政を通して制度を活用した方がいいよ」とアドバイスを受けました。それは農業次世代人材投資事業(旧青年就農給付金)でした。まず、「準備型」を活用して2年間トマト栽培を学びました。研修先は当初、どちらかというと労働力を求めていたようですが、制度の活用で研修生として受け入れられ、定植から収穫まで一通り学ばせていただきました。
就農して3年経つ今もまだトマトは作っていませんが、いっぱい実が付き過ぎると摘果したり、葉摘みもしたり、虫がつかないように消毒したり、といったことはサクランボと同じで、作物は基本は一緒なんだなと思い、今に生きています。また、「収穫期間の長い野菜より、年1回の収穫に力を注ぐ果樹の方が達成感があって、自分に合っているかも」とあらためてサクランボの魅力に気付けた研修でもありました。
「俺が生きているうちに変えなくてもいいじゃないか」。父は当初、農地を手放すことに困惑していましたが、その後は全て1人で手続きをしてくれました。父と地域とのつながりという“財産”も引き継ぎました。
その後、認定新規就農者になり、いよいよ就農の局面が近づいてきました。自分名義の農地を確保する必要があり、父にサクランボの園地を名義変更したいと相談しました。すると、「俺が生きているうちに変えなくてもいいじゃないか」と不満げな様子でした。私も初めてのことばかりで十分に説明できていませんでしたが、父は突然、農地を手放さなければならなくなったことに最初は困惑していました。でも、その後は父が全て手続きをしてくれました。生前贈与に当たるため、姉と兄にも承諾を得ました。今思えばスムーズに進んだように思います。私自身とJAをはじめとする農業の関係機関との接点が急に増えたのもその時です。JAの正組合員になり、自分名義の出荷番号を取得しました。農機や設備関係は基本的に父の使っていたものを受け継ぎましたが、借りていることを証明する書類が必要とのことで、一つ一つそろえていきました。JAの担当者はいろいろと親身にアドバイスしてくれ、同事業の「経営開始型」などを活用して、乗用草刈り機をそろえました。
農地や農機などの他にも、父から引き継いだものがありました。冬の間にサクランボの樹を切る剪定作業がありますが、これはとても技術のいる作業です。収量や品質に大きく影響するからです。そこで父が、この作業に熟練している知り合いの農家さんを紹介してくれました。これは本当に大助かりで、今でも時期になると園地にきてもらい、一緒に作業してもらっています。栽培技術を磨くため、自分自身でも若手の果樹農家が集まる研究会に参加し、さまざまなアドバイスを受けています。それでも長年にわたり父が築いてくれた地域とのつながりは、私にとっても大きな財産と感じています。
強制的な独り立ちにとまどいましたが、そのことで父の農家人生を実感しました。自分も歩む覚悟が固まり、父に感謝の気持ちがわきました。
就農して樹を定植してから3年目。初収穫を迎えました。その年、父から“非情な”宣告を受けていました。「おれはもう何も口出ししないから」と。前年までと打って変わって本当に手伝ってくれず、作業もほとんど1人。収穫直前に雨よけのハウスにビニールをかぶせるのも自ら数メートルの高さまでよじ登りました。収穫時期のパートさんの確保も自分でやりました。
前年は娘を出産しており、余計に「もう1人なの」ととまどいが大きかったです。でも、おかげで農家人生の覚悟が一気に固まったような気がしました。「父は何十年も1人でこういうことをやってきたんだな」と思い、農地を守ってきた父にこれまで以上に大きな感謝の気持ちがわきました。農業は1人でやるんじゃないんだなということも実感しました。苦労している私を見かねて、友達や農家じゃない地域の方がたくさん顔を出してくれました。たぶん、心配したんだと思いますが、とても励みになりました。 初収穫の喜びは想像以上に大きかったです。一から手を掛けて、実がなり、赤くなっていく様は、サクランボを選んで本当に良かったと実感させてくれました。自分の思いを形にできる経営者としても、農家になって本当に良かったと思います。ただ、サクランボだけだと経営の安定はもう少し先になりそうです。来年はJAの紹介を受け、後継者不在の園地で栽培を始めた桃が初収穫を迎えます。夫は一緒に農家をやりたくてうずうずしているようですが、「もう少し待って」と話しています。夫も一緒に始めれば、トマト栽培も考えられるようになりそうです。
女性らしさを前向きに生かしていきたい。
農家として一日も早く地域に溶け込み、経営を軌道に乗せるためにこれからもっと頑張らないといけません。そんな中、女性農業者がもっと増えてほしいと思うようになりました。女性は重労働には向かないし、日焼けも気になります。子育てとの両立も悩みどころです。でも、例えば力仕事ができないからこそ、省力化の新しいアイデアを生み出せるかもしれません。女性らしさを前向きに生かしていきたいのです。3年目で一番うれしかったのは園地の一角にシートを広げ、新緑の中で前年に産まれた娘と一緒にお弁当を食べられたことです。これからもっともっと技術を磨いていくのはもちろんですが、将来娘が、私が大好きなサクランボ農家になりたいと言ってくれるような農家を目指したいです。
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