農業法人への出資を通じて経営をサポートするアグリビジネス投資育成株式会社が、前シリーズ「成長を導く資本政策」に続き、地域に根差しながら成長を続ける農業法人の経営者へのインタビューを紹介します。
(有)村上畜産 黒濱社長へのインタビュー記事は2回に分けてお伝えします。
第9回:「家族に食べさせたい」安心安全な豚肉づくりへのこだわり
第10回:創業者の思いを次世代につなぐ、家族以外への事業承継
第9回 『家族に食べさせたい』安心安全な豚肉づくりへのこだわり
■会社の概要(2019/12時点)
会社名:有限会社 村上畜産
代表者:代表取締役社長 黒濱 武仁
所在地:山形県米沢市
事業内容:養豚一貫
出資年月:2007/8
資本金:22,000千円
■ 会社の紹介
(有)村上畜産は、山形県米沢市、南原地区にある養豚一貫生産を行う農業法人で、平成元年(1989年)に法人化しました。
現在の生産規模は母豚360頭規模、年間出荷頭数7,500頭で、かつてはイワタニ・ケンボロー(株)(世界最大の種豚会社PIC社の日本国内の総代理店)の契約原種農場の一つでもありました。
「自分が家族に安心して食べさせられる豚肉づくり」にこだわり、地名を冠したブランド豚「天元豚」として、地元はもちろん、香港など海外でも人気を博しています。
村上畜産は平成23年(2011年)、村上氏が70歳になったことを機に事業承継を実施し、黒濱武仁氏(獣医師)が代表取締役社長に就任しました。現在は創業者の村上氏は会長として、黒濱社長へ養豚への思いを託し、経営を任せています。
村上畜産のように、家族以外への事業承継をうまく進める秘訣は何か、事業承継の裏側に迫りました。前半では、村上畜産の始まりと後継者である黒濱さんの出会いについてご紹介していきます。
1.兄に土地を買ってもらい、10代で農業の道へ
― 村上会長は農家のご出身ではないそうですが、農業を始められたきっかけを教えてください。
(村上会長)
私は米沢生まれの米沢育ちですが、高校時代は東京の世田谷区で過ごしました。その時に、近所に養鶏をやっているところがありまして、それを手伝っていました。当時はある程度の規模で養鶏をすれば、儲けも良かったのです。
学校を卒業後に農業を始めようと思ったのですが、当時は未成年で土地を買うこともできませんでした。結局兄に土地を買ってもらい、地元米沢で養鶏を始めました。
養鶏を始めてから、とある養鶏農家から聞いて採卵周期の短い養鶉(ようじゅん)にも取り組むようになりました。
鶉(うずら)は餌を食べるときに周囲にまき散らしてしまうのが悩みで、その餌の二次利用として豚を買い始めたのが養豚を始めたきっかけです。当時は豚肉の単価もよく、次第に養豚に注力するようになりました。
そうして私の代で農業を始めたものの、子供は娘3人です。日本の高度成長期のころ、農業は「3K」の仕事とみなされていましたので、無理に娘たちに継がせることは考えませんでした。娘たちに後継希望者がいなかったこともあり、一時は事業の売却も検討していました。
2.独自の減投薬生産方式で、安心安全な「家族に食べさせたい」豚肉づくり
― 御社の事業の特徴を教えてください。
(黒濱社長)
自分たちが家族に食べさせたいと思うような、安心安全な豚肉づくりをしています。
一度は無投薬での肥育にも挑戦しましたが、ありふれた小さな病気が大きな損害につながりやすくなります。最終的に食べてしまうとしても、生きている間に病気などでストレスをかけているのは問題だなという考えと、これ以上は豚の命の犠牲を増やしたくないという考えから、無投薬をやめ減投薬にしています。
いいものを作ったからといって高く売れるという時代でもないので、無投薬はコストをかけても価格に反映しきれなかったことも理由の一つです。
独自の減投薬生産方式で生産した豚肉は、地元の地名から『天元豚』と名付け、商標登録して自社ブランド豚として販売しています。米沢市内でも、スーパーや旅館、レストランで地元ブランド豚として定着しています。
香港への輸出は生産量の2%ですが、11年取り組んでいます。途中、放射能や口蹄疫などの問題で3回出荷停止していた時期があり、8年目でようやく黒字化しました。出荷停止がなければ、もっと早い段階で黒字化できただろうと思います。
香港に輸出するのは容易ではありませんが、山形県の応援があって実現しました。こうして継続できているということは評価していただけているということでもあり、大変ありがたいです。
3.コンサルタントを後継者へ。養豚にかける思いで意気投合
― 村上会長と黒濱社長の出会いについて教えてください。
(黒濱社長)
私はもともと獣医としてケンボローに所属していて、27、28歳頃から、村上畜産を担当していました。当時の仕事は獣医師として契約農場で生産する種豚の検品、そして生産に関するコンサルティングが半々でした。村上畜産にも4、5年は通っていました。
(村上会長)
私は当時黒濱くんと飲みながら話していて、『業界のあるべき姿』や『肉がどうあるべきか』といった方針が共通していることに気づきました。
私は、会社の経営は経済行為である以上、血縁の有無に関係なく、同じ意思を継いでくれる人がいいと考えていて、『おいしくなければ豚肉じゃない』という思いを共有でき、波長が合う黒濱くんを後継者として考えるようになりました。
― 黒濱社長のご経歴について教えてください。
(黒濱社長)
私は単純に動物が好きで、獣医を志しました。学生時代に様々な現場を見て、産業動物獣医師に興味を持ちました。特に豚がいいなと思い、6年生になってすぐ、当時の助教授のところに相談に行きました。
すると、その場でその先生がイワタニ・ケンボローに電話をしてくださり、とんとん拍子に面談を受け、採用となりました。
イワタニ・ケンボローに獣医師として就職すると、最初に農場の研修で豚の知識をつけて、半年後には技術部に配属されました。その後、先輩方と現場を回り、養豚現場のコンサルとして病気を予防したり、生産性を向上させるためのアドバイスを行っていました。
我々獣医師には、配属時から種豚の出荷をやめさせる「拒否権」がありました。現場で病気や損害が発生する可能性に気づいたときは上司の指示なく、ひとまず出荷や現場の作業をやめさせることが出来るのです。
病気など何らかの問題に発展する可能性があれば、一旦現場を止めたうえで確認し、継続の可否を検討するルールになっています。獣医師の責務を感じながら仕事をしていました。
インタビューを終えて
村上会長は、農家の出身ではないにも関わらず職業として農業を始められ、事業として軌道に乗せるまで様々な挑戦をしてきました。その柔軟な姿勢が、後継者探しにも表れているようだと感じました。
また、黒濱社長は産業動物獣医師としてキャリアをスタート。日常の業務を越えて養豚業界全体のことを考える中で、生産者としてのご自身の考えを培われてきたことが伝わってきます。
後半では、黒濱社長が入社し、事業を引き継いでからの様子をお届けします。
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